よしおかノート

人生とは、壮大かつ複雑な実験である

生徒がところ構わず渡してくる書類の管理について

 
 
 
困っていることがある。
生徒が、所構わず渡してくるプリント類である。
 
朝のSHRで、PTA役員会の出欠票を。
1限の授業に行く道すがらで、課題プリントを。
昼休みの見回り中に、部活動の提出書類を。
帰りのHRで、またもや課題プリントを。
 
とにかく、場所時間を問わず、様々な種類のプリント類が溜まっていく。
高校教員ならば、少なからず経験がおありなのではないだろうか。

 

 
ちなみに、プリントをくれるのは生徒だけではない。
「先生、これ中間テストの範囲表です。生徒に渡してください」
「これ先生のクラスの〇〇くんに。今日のクラブの集合時間です。」
「先生これ……」
 
再び、私の机の上はプリントだらけである。
 
 

 

 

 

とにかく学校現場は紙類が多い

 
しかし、ペーパーレス化はいっぺんには進まないし、実際に現場で働いている身としては、提出物や連絡事項は紙の方が都合がいいのも確かである。
これらの紙類を扱う上で、最も注意すべきは、紛失である。
大事な書類を紛失したとなればシャレにならないし、先生方の連絡を伝え漏らすのも心証が悪い。とにかく漏れのないように、託された書類をさばいていかなければならないのだ。教員の仕事は、紙との戦いだと言っても過言ではなかろう。


かごを用意しましょう

 
私は
①教室(担任クラス)用
②授業(教科)用
③その他
の三つのかごを常備している。そのうち①のかごにはクリアファイルを2枚常に入れている。
 
一枚は「受取用」、これがいわゆるインボックスの役割を果たしてくれる。
生徒から預かった書類は全て、まず「受取用」のファイルに入れる。そして空き時間に仕分けを行う。こうすれば絶対なくすことはない。
そしてもう一枚が「配布用」で、先生方から生徒への配布物や連絡は全てこのファイルに入れる。そしてSHRの余った時間などに都度生徒に仕分けする。
 
このシステムにしてから、入ってくる書類の管理が格段に楽になった。
 
 
 

凡例

 
朝、教室に入る。「先生、これオカンから。」と、PTA会議の出欠表。「OK」ファイルへin。完了。
 
廊下を歩いていると、「先生!これ今日までの課題……!!」と走ってくる生徒。
「OK。しかし、ギリギリに提出しちゃいかんぞ。」これもファイルへin。完了。
 
職員室にて。「よし岡先生、これ今日の委員会の時刻と場所の連絡です。Aくんに渡してください。」
「分かりました、伝えておきます。」これは「配布用」のファイルに入れる。終わりのSHRにて返却。完了。
 
 
 
 
 
こんな感じで、迷子になりがちな細々とした書類の管理をシステム化することによって、毎日の業務が少しスムーズになる。
そのことによって、少しでも仕事のストレスから解放されればいいと思う。
 
本日は以上。
 

新元号発表

 

今日、新しい元号が発表された。

その瞬間に参加したかった私は、職場でこっそりラジオを聴いていた。

 

11:30をだいぶ過ぎた頃だった。

「新しい元号は、」「レイワです」

ラジオだから音しか分からないのだが、漢字が中々出てこなかった。レイワ?零話??

 

しばらくして、「年令の令に平和の和です」という解説が入り、ようやく「令和」という文字が頭に浮かんだ。

 

 

 

正直、最初はピンとこなかった。特に「令」の字に込められた意味が。

 

午後12時過ぎ、安倍総理の説明の中で、この元号万葉集から引用されていることが分かった。令和は、ひと言で言えば、春だった。

 

長い冬が終わり、何をするにも良い、美しい季節。

「reiwa」という音に込められた清涼さと流麗さも含めて、とてもいい言葉だと思った。今までの元号の概念と少し異なるのも、新しい時代を反映しているようで良い。

初めに感じた違和感は、時間を経るにつれてだんだんと好感に変わっていった。

 

これからの時代が少し楽しみになるような、そんな気持ちにさせてくれた元号発表であった。

 

 

 

 

結婚について その1

 

突然だが、結婚について悩んでいる。

現在、結婚を前提にお付き合いしている男性がいる。

19歳の時から26歳の現在まで、7年半交際していることになる。

 

年齢的にも結婚してもいい時期なのだが、問題がいくつかある。

 

① 彼がまだ博士課程に在籍しており、就職の目処が立っていない

② 私と親(特に母親)との関係が良くなく、彼とのことで過去にもめており、今まで彼と両親を会わせていない。結婚の話ももちろん賛成されていない

③ 私は地方公務員であり、彼の今後の就職先によっては仕事を辞め、地元を離れなければならない

 

特に①と②が問題である。今日も母親と結婚のことで話をしたが、母が怒って話は中断してしまった。

結婚の意思はあるが、自分自身も迷いがあるのは確か。

 

まずは、彼と今後のことをよく話し合って、結婚後の生活についての情報を集め、母親に彼のことを知ってもらう努力をすべきなのかな。

或る生徒の父親の死に寄せて

 

教員という仕事をしていると、生徒の数だけ色々な経験をする。嬉しいことも楽しいことも、時には胸がつぶれるようなことも。

 

 

 


昨年、教師2年目にして、担任をしているクラスの生徒の父親が亡くなるという経験をすることになった。死因は突然死。ある朝、起きてこない父親の様子を見にいくと、布団の中ですでに亡くなっていたそうだ。
まだ若く、皆から頼りにされる立派なお父さんだったらしい。地元の消防団に所属していて、人望も厚かった。通夜には会場から溢れるほどの人が参列していた。


生徒の親が亡くなった場合、担任と学年主任、管理職が通夜(あるいは葬儀)に参列するのが通例である。まだ身内の葬儀にもあまり参加したことのなかった私は、その異様な空気に呑み込まれそうになっていた。

(父親と同い年の学年主任はもう流石に慣れていて、「お前、何緊張しとんねん」と、わざとツッコミを入れてくれたりしたので、それで少し気が紛れた。)


通夜が始まり、徐々に参列者の列が進み始めると、人だかりの奥に担任する生徒の姿が見えた。黒い喪服に身を包む母親や兄弟といった遺族の中で、彼は唇をぎゅっと噛み締め、しかし決して俯くことも涙を見せることもなく、立派に務めを果たしていた。その姿を見て、私はその日初めて泣きそうになった。

 

 


私は元来、人との関わりが薄い。友人と呼べる人も数えるほどしかいない。そんな私が、教師になってからは何十、何百人という生徒たちと日々関わるようになった。仕事としては勿論、日々真剣に彼らと向き合ってはいるのだが、所詮は卒業するまでの付き合いであり、他人だと思っていた。
しかし、生徒の父親の葬儀に来てみて、変な話だが「あぁ、他人事じゃないな」と感じた。関わった以上は、もう他人ではないのだ。

 

 

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翌日のホームルームで、クラスの人たちに伝えようとしたことのメモである。結局、きちんとは伝えることはできなかった。でもそれらしいことは言えた。


そして、何日か学校を休んだ後、彼は何事もなかったかのように笑顔でクラスの中へ戻っていった。それは彼自身の強さ故だったのかもしれないが、うちのクラスのある意味でのアホさとか能天気さは、彼の救いになったと、密かに感じている。いつも叱られてばかりのクラスだが、人の気持ちがわからない奴らではないのだ。そしてそんな自分のクラスに、私が一番救われているのかもしれない。

 

 

 

 

先生と湯豆腐とウィルキンソン

 
 
炭酸水が好きだ。特にウィルキンソン社のものは、炭酸が強くて喉越しもいいので常備するようにしている。
 
「炭酸水って美味しいの?」「味しないんじゃないの?」と周りからよく聞かれる。たしかに最初のうちは味がしないことに戸惑うが、慣れると甘ったるい炭酸飲料よりもむしろスッキリと飲めていい。しかもたいていの飲料よりも安価である。そして糖分やその他もろもろもゼロ(だってただの水だもの)。健康にもいいし、いいことづくめだ。
 
私が炭酸水を飲むようになったのは、仕事をするようになってからだ。理由を考えるに、お酒を日常的に飲むようになったからではないかと思う。とりわけ、学生の時には苦手だったビールを、社会人になってからは好んで飲むようになった。仕事で疲れて渇いた喉には、ビールの少し強めの炭酸が心地いい。その快感を、普段から求めるようになってしまったのかもしれない。いかにも酒呑みの発想だ。
 
 
 
 
  ウィルキンソンといえば、と、ある小説のことをふと思い出した。川上弘美の『センセイの鞄』である。ふた回り以上も年の離れた”センセイ”との交流を描いたこの美しい小説を初めて読んだのは、卒論に追われていた大学4回生の冬だったと記憶している。それから本棚の中のこの小説に、何度も手をのばしている。恋愛小説なのにやたら酒とつまみの描写が秀逸で、読むと必ず湯豆腐をツマミにお酒が飲みたくなる。この辺りも、酒呑みにはたまらない。
 
 
ウィルキンソンの瓶は、さりげなく、しかし象徴的に、この物語の中に存在している。「自宅の冷蔵庫にウィルキンソンを常備するような大人」に、この本を読んだ私は、きっと憧れた。その憧れが、数年後無意識のうちに行動にあらわれていたことに少し驚いた。
 
奇しくも私は今、「先生」と呼ばれる仕事に就いている。作中の”センセイ”と同じ種類の人間として、私は生きている。そんな偶然を噛み締めつつ、「ぷしっ」と勢いのある音を立て、私は今日もウィルキンソンのふたを開ける。
 
 
 

 

センセイの鞄 (文春文庫)

センセイの鞄 (文春文庫)

 

 

 

【書評】前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

 
 
ただの新書だと思ったら大間違い。笑って笑って、うっかり感動させられたりする。前野先生はものすんごい人だと思う。
 
 
 
・すごいところその1
全てをかけてアフリカに単身突撃する行動力と腹のすわり具合。地雷を踏みかけてもサソリに刺されても屈しない。
 
 
 
・すごいところその2
研究者にありがちな(という偏見かもしれないが)「研究できればそれでいい」という考えのもと、盲目的にやりたいことをやるのではなく。かといって、ある程度安定してお金をもらえればいいと妥協するでもなく。夢である「昆虫博士」になる為に工夫も苦労も重ねて、型にはまらず、それでいて非常に現実的な解決策を模索しているところがすごい。頭もいいんだろうなと思う。
 
 
 
・すごいところその3
学者なのに溢れるユーモア。ブログを書いたり、ニコニコ超会議に出演したり、面接に白眉で臨んだり。でもそれらすべてが計算の上なのだ。自分を滅し、目的の為にはひたすらにまっすぐなのである。そういうところに驚きもし、勇気ももらう。
 
 
 
 最後に、前野先生がババ所長から「ウルド」(Ould モーリタニア語で「〇〇の子孫」という意味を持ち、最高に敬意を払われるミドルネーム)を授けられたシーンが感動的なので。
「(前略)誰か一人くらい人生を捧げて本気で研究しなければ、バッタ問題はいつまで経っても解決されないと思います。私はその一人になるつもりです。」
 
 
研究しなければ、論文を出さなければ食っていけない。だから、論文にしやすそうな研究をする(時には、結果ありきの研究をしたり)。日本の博士たちの過酷な状況では、不本意でもそうならざるを得ないのだろうが、「いや、それでも!」と前野先生は行動するのだ。
 
何のために研究するのか。何のために働くのか。世界には解決すべき問題がたくさんあるのに、見て見ぬ振りをしてどうでもいい仕事をするのか。すべての社会人に問いかける本書。身に沁みました。
 
 
 

 

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 

 

 

 
 

素晴らしい最期だった 〜直虎第33回「嫌われ政次の一生」レビュー

 

先日、大河ドラマ「女城主 直虎」が一つの山場を迎えた。以下、盛大なネタバレとなるので、未視聴の方はブラウザバックをお願いします。もし内容が気になるようであれば、ぜひ1話から観ることをお勧めします。今までの話は、この33話のためにあったのだと思う。

 

 

 

 

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第33話「嫌われ政次の一生」

 

まず、副題からして秀逸である。始まったばかりの頃は「ふざけてるのか」とさえ感じたこの副題パロシリーズだったが、はたしてこの回の為のものだったのか。

 

最初から最後まで引き込まれたが、特に後半15分は、只々泣き続けるしかなかった。ドラマや映画でこんなに声をあげて泣いたのはおそらく初めてだ。大泉洋主演の映画『青天の霹靂』で、柴咲コウ(偶然にも)演じる母親と大泉洋演じる息子の対話のシーンでもかなり泣いたが、それ以上だ。

 

存在を大切に想うが故に、その死を最大限利用するという結論の、潔さ。まさかの、自らの手でとどめを刺す直虎。そんな直虎の決断に、満足気に逝く政次。展開としてはかなり特異であるにも関わらず、それまでに丁寧に描かれていた二人のそれぞれの思いや関係性ゆえに、全く破綻がない。完璧だ。完璧な、そして深く、美しい最期だった。

政次を演じる高橋一生がとにかく素晴らしい。牢で、龍雲丸に向かって「本懐だ」と告げた時の、迷いのない表情。そして最期のあの笑み。おとわへの愛情や、信頼、敬意、一言ではとても言い表せない感情が溢れていた。

直虎と政次が最期の瞬間まで浴びせあった罵声は、すべて裏返しだ。本心を言葉の裏に隠し、本人達にしか分からない最期の言葉を交わし合う。ある意味、ものすごくロマンチックで、そしてやはり切ない。

 

本当に、映画を一本見たような内容の重さだった。大河ドラマ史上に残る名場面を視聴できた幸せをかみしめながら、しばらくは政次ロスに陥りそうである。